証言  ― PMFの軌跡と未来へ ―  第2部
第3回 ~PMF第2回開催へ向けて(3)~

「PMFを応援する会」会長
元PMF組織委員会オペレーティングディレクター  竹津宜男

第2回PMFは第1回PMFをレナード・バーンスタインと共に務めたマイケル・ティルソン・トーマス(MTT)とヒューストン交響楽団のクリストフ・エッシェンバッハが芸術監督に決まった。また、指揮者にマイケル・バレット、更にアカデミー生の面倒を見るレジデント・コンダクターには日本人指揮者の大植英次、アシスタント・コンダクターに佐渡裕が選ばれた。

指揮者・大植英次はレナード・バーンスタインの最後の弟子と言われた指揮者で、アメリカのバッファロー交響楽団の準指揮者に就任していた。佐渡裕は京都市立芸術大学出身で、1988年8月25日にアメリカ・マサチューセッツ州のタングルウッド音楽祭で行われたレナード・バーンスタインの70歳誕生日のガラ・コンサートで初めてレナード・バーンスタインに会い、直後のヨーロッパ・ツァーに同行したほどお互いに引き合うものがある間柄だったようだ。

第1回PMFで1990年6月29日のレナード・バーンスタイン指揮「ロンドン交響楽団演奏会」終了後の楽屋で左手にシガリロ、右手にバランタイン17年(バランタインには21年、23年とあるがバーンスタインは17年だった)のタンブラーを持ったレナード・バーンスタインの正面に直立不動の姿勢で並んでいたのもこの2人の日本人指揮者だった。ライバル同士であり共に個性の強い2人だが、この2人にも増してライバル同士だったのは第2回PMFの芸術監督に就任した2人の指揮者だった。

「両雄並び立たず」とはまさにこの2人のことかと思われた。エッシェンバッハの方が4つ年上だがピアニストとして大活躍していたため、指揮者デビューはティルソン・トーマスに後れを取っていた。ティルソン・トーマスは1990年までレナード・バーンスタインが総裁を務めていたロンドン交響楽団の首席指揮者。一方、エッシェンバッハは成長著しいヒューストン交響楽団の指揮者を務めていた。レナード・バーンスタインほどの別格者は別にして、指揮者同士の折り合いは余り良いとは言えず、否、周りが必要以上に緊張していたせいかもしれないが周りの気遣いも大変なものだった。

例えば、2人の芸術監督は会期の前半と後半を担当するのだが、後半を担当するエッシェンバッハが午後に到着する日には午前中にティルソン・トーマスが離札する-とか、芸術監督2人のアテンド(付き人)は元劇団員でオーストラリア在住の、英語に堪能な気遣いの素晴らしい橋本邦彦氏が1人で務め、それぞれの歓迎パーティは差別がないように-とか、事務局側も表に見えない緊張の気遣いだった。芸術監督と遠慮なく議論を戦わせていたのはウィーン・フィルのクラリネット奏者・ペーター・シュミードルぐらいのものだった。

傑作だったのは、エッシェンバッハは「すし善」の鮨が大好きで、札幌滞在中に何度も足を運んだそうだ。札幌でティルソン・トーマスと顔を合わすことが無かったので、ティルソン・トーマスの方は「すし善」を知らなかった。PMF創立10周年の年に初めて顔を合わせて2人で一緒に食べに行った時、勿論この時はエッシェンバッハが誘ったのでエッシェンバッハのおごりだったようだが、とても美味しかったので後でティルソン・トーマスは1人で食べに行き、支払いの段になって余りの高額にびっくり、負けてくれと言ったそうだ。「すし善」側では既にエッシェンバッハ並みに割引にしていたらしいのだが・・・。

後でこんな話を聞くと、はたしてそんなに気を遣わねばならないほど、犬猿の仲だったのかどうか疑わしくなる。アメリカのマネジメント流にアーティストをまつりあげるため、不仲物語を作って付加価値(?)を高めていたのかも知れない。

一方、日本人指揮者・大植英次はレジデント・コンダクターとしてアカデミー生の練習時間が足りないので、エッシェンバッハ指揮「PMFオーケストラ」でマーラーの交響曲第2番「復活」の苫小牧公演日の午前中に、現地で後日にある予定の大植英次指揮の曲目を練習させたりした。アカデミー生だけのPMFオーケストラは全員が若いとは言え、さすがに大植への風当たりは強かった

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