証言  ― PMFの軌跡と未来へ ―  第2部
第2回 ~PMF第2回開催へ向けて(2)~

「PMFを応援する会」会長
元PMF組織委員会オペレーティングディレクター  竹津宜男

1990年11月にPMF第2回開催が正式に決まって、大晦日にニューヨークのセント・ジョン・デヴァイン教会で行われたレナード・バーンスタイン(LB)の追悼コンサートには故板垣武四札幌市長が列席した。

司祭、ニューヨーク市長と並んで高壇に上がり1万人の参集者を前に「バーンスタイン氏の遺志は札幌市が受け継ぐ」という有名な演説を行い、札幌市が継続的にPMFを実施することを世界にアピールした。

年が明けて1月下旬にはPMF組織委員会が発足、会長には(財)札幌芸術の森理事長・板垣武四(5月まで札幌市長)が就任した。また、委員には道内の主要な文化団体の代表と今日ではグランド・パートナーズと呼ばれている野村證券をはじめとするスポンサー企業の役員が就任、参与として報道各社の社長などとならんで日本音楽マネージャー協会理事長が就任した。また、顧問には北海道内各市の市長が就任して、北海道で行われる“全国区”の国際教育音楽祭の態勢を整えた。参与に就任した日本音楽マネージャー協会理事長・梶本尚靖(梶本音楽事務所社長)は2月に来札しPMF組織委員会を尋ねて激励した。

PMF初めてのアカデミーメンバーを選ぶライヴ・オーディションは3月11日のニューヨークを皮切りに世界の7都市で行われ、世界から700人が応募した。

24カ国・地域から選ばれた132人のオーケストラ・コースと17人の声楽コースのアカデミーメンバーは7月になって札幌へ集まった。宿舎の真駒内青少年会館は1部屋に6人が入り、各部屋は中通路をはさんで両脇に3段のベッドがある蚕(カイコ)部屋方式だった。当時は冷房が付いていなくて暑い室内には持参してきた個人のバッグの収まるスペースもないためドアの外の廊下に並べられていた。さらに、平和主義者LBの夢を実現する国際教育音楽祭の趣旨にそって1部屋に入る6人はなるべく国籍の違うメンバーだった。それにより部屋の仲間は国籍・地域を越えて仲間意識が芽生えたようだった。

予想したよりも大変だったのは食事だった。今ではエントリーの段階で、宗教によって口に入れられないものとか、ベジタリアンなど食事に関する条件を書いてもらっているが、最初はそこまで気が回らず、始まってみるとベジタリアンの多いのに苦労した。

また、育った国や地域によって食べ方の違いが大きく、野菜があふれている東アジア出身者はたとえ食べ切れなくて残しても始めから自分の皿へたくさん取り分けてしまうため宿泊者数からは余るほど十分に用意してあるはずの野菜がいつも足りなくなり騒ぎになるのだった。

また、初期のアカデミーメンバーは“少年ギャング性”の強い人たちが多く、実にやんちゃでいたずらが多かった。回を重ねてくるとアカデミーメンバーにリピーターがいるせいか、ある種の伝統がうまれ秩序もよくなり落ち着きが出て来た。最初のアカデミーメンバーと比べると、今日では年齢に関係なくメンバーが大人の集団に成長してきたと思う。

PMFの本拠地になった札幌芸術の森は第2期工事が整った時にPMFがやって来たため、急遽仮設の「野外ステージ」を作ってあった。練習場は大練習室1、中練習室1、小練習室2の4部屋しかないため、野外美術館の敷地内に7棟のプレハブの仮設練習室を設けた。また、本部棟もプレハブで作ったので第1回(1990年)の時のように「札幌芸術の森」管理棟のロビーを組織委員会事務局が大きく占領することはなくなった。(敬称略)

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