証言  ― PMFの軌跡と未来へ ―  第2部
第1回 ~PMF第2回開催へ向けて~

「PMFを応援する会」会長
元PMF組織委員会
オペレーティングディレクター  竹津宜男

第1回のPMFは1989年6月に中国・北京で天安門事件が勃発して、北京でのPMF開催が不可能になり、急遽札幌へ避難しての開催だったためにその後の継続開催については全く考えられていなかった。準備期間が1年もなく、ぶっつけで開催した国際教育音楽祭だったがバーンスタイン(LB)も驚き感激したほどの大成功を収めた。

LBの宿舎を引き受けたホテルニドムの環境と受け入れ態勢の良さ、宿舎から各会場までの往復を受け持った つばめハイヤーの運転手、札幌芸術の森の現場での対応、そしてなによりも札幌市の優秀な職員の情熱と高い事務処理能力、これらすべてが信じられない成功をおさめる要素だった。北京から札幌へ開催地を変更して企画を持ち込んだLB側の関係者も企画を支援したスポンサーも、まさかこれほど順調に事が運ぶとは予想もしていなかったようだった。

実際に1回目のPMFを開催したことによって、「特別協力」の形ながら実際は「主催」と同等の責任を果たした札幌市も国際教育音楽祭の意義を十分認識することが出来た。

そして第1回の終了と同時にLB側と札幌市の双方から継続開催の声が上がった。またスポンサーも継続するなら支援する意思を札幌市に伝えた。

第1回PMFが7月14日に終了してわずか3ヵ月後の10月1日には札幌市はPMF準備室を設けて継続開催の強い意思を表わした。4人の職員で始めたPMF準備室は、新しいビルが出来たために移転して空き家になった旧消防局ビル4階のがらんとした空き部屋にあった。取り壊す予定のビルだったのでエレベータも暖房もなく、冬を迎えたため持ち込んだ石油ストーブの灯油も職員がポリバケツで購入して道路から4階まで階段を歩いて運び上げなければならなかった。この準備室は12月末にバスセンター第2ビルに移転したため旧消防局ではわずか2ヶ月間の短い事務所開設だった。この間、準備室には2回目以降の開催に期待を寄せる市民や企業の人たち、東京からの関係者らの訪問で連日にぎわっていた。1回目は10ヶ月の短い準備期間で開催しなければならなかったのだが2回目はさらに短い9ヶ月の準備期間で本番を迎えることになる。その間に翌1991年1月には正式にPMF組織委員会の立ち上げ、2回目は当初予定されていなかったため、改めて教授陣になるアーティストやレジデント・オーケストラとの交渉、期間中のスケジュールの作成、アカデミーメンバーも含めた移動や宿泊所の手配、札幌芸術の森での対応準備などと共に、世界の各都市で初めて行うPMFアカデミーメンバーのオーディションの準備など、1日が24時間では足りない毎日だった。

国際教育音楽祭PMFのアカデミーメンバーを世界から公募するためにはポスターやチラシの送り先が問題になった。幸いなことに国内のある国際音楽コンクールの事務局が快く送り先の名簿を貸してくれた。次に初めてのライブ・オーディションを行う会場の手配が問題になり、アメリカ国内とオーストラリアについてはLB側の事務所が手配した。

アジアでのオーディション会場はPMF組織委員会が手配することになり、韓国は指揮者の故 林元植氏が理事長を務めるソウルの高等音楽院のホールを、台湾の台北会場はヤマハの台北教室のお世話になった。日本国内は東京と札幌で行った。札幌では札幌音楽専門学校の教室を借りた。残念ながらこの学校は数年前に閉校になって今はない。

全てのオーディションにはPMFアカデミーのレジデントコンダクターを務めた大植英次が立ち会った。

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