第9回 バーンスタインの弟子

第一回目のプログラムはなかなか決まらなかった。札響もPMFに全面的に協力、どこかでバーンスタインに指揮してもらうチャンスも生まれないかと会期中のスケジュールを全て空けて打ち合わせを待っていた。

残念ながらバーンスタインの指揮は実現しなかったがバーンスタインの弟子たちが札響を指揮することになった。一人は日本人の大植英次氏(7月9日)もう一人はアメリカ人のリーフ・ブヤランドだった

大植英次氏は桐朋学園高校の音楽科にホルンで入学している。指揮科の学生はホルンを勉強する例が多い。札響の歴代指揮者 秋山和慶氏、尾高忠明氏はいずれも優れたホルン奏者だったそうだ。大植英次氏のホルンはこの2人には及ばなかったらしい。

札響の指揮が当時アメリカのバッファロー管弦楽団のアシスタント指揮者の大植英次氏に決まった時、桐朋の音楽科を卒業した札響楽員達を経由して大植さんは学生時代ホルンが下手だった、といううわさが伝わって来て「大した才能も無い奴に指揮をさせてPMFは札響を馬鹿にしている」との話が広がった。

大植英次氏の下、ブラームスの交響曲第2番のリハーサルが始まった。前評判は悪かったのにリハーサルに無駄は無く楽団員はぐいぐい引き込まれた。

このコンサートで予定されていたソリストが本番前日にキャンセル、演奏曲目が急遽、大植氏には初めてのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に変更になった。指揮譜が本人の手に渡ったのは深夜だった。本番ではソリストとの呼吸もぴったりの名演を聴かせ、楽団員は誰も大植氏の初めてチャイコと気が付かなかった。

ブラームスでは師匠をほうふつとさせる生き生きとした重量感あふれるサウンドを札響から引き出し聴衆も楽団員もうならせた。創立以来、札響を指揮した若い指揮者ともう一度やりたいと楽団員側に言わせたのは大植氏が初めてだった。

その後ミネソタ管弦楽団音楽監督、北ドイツ放送フィルの首席指揮者、大阪フィルで故 朝比奈隆の後任に就任、アジア人としては初めて2005年のバイロイト音楽祭の指揮者として登場する大物に成長した。

PMFのような国際音楽祭では、未知の優れた才能に出会い新たな感動を共に出来る大きな楽しみがある。

(註) <連載 全9回> 「証言―PMFの軌跡と未来へ―」は、
今回で終了いたします。ご愛読を有難うございました。

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