第6回  PMF第1回開催へ向けて

札幌市が特別後援になることが決まって第1回のPMF1990の準備が始まりました。国際教育音楽祭PMFはオーケストラプレーヤーの教育を中心にした音楽祭で基本的にはとても地味な音楽祭ですが、この地味な教育部門(「アカデミー」と呼ぶ)と一般市民に鑑賞してもらう演奏会部門から成り立っています。

第1回にはレナード・バーンスタインとマイケル・ティルソン・トーマスが芸術監督を務め、レジデント・オーケストラとしてロンドン交響楽団、独奏者にはヴァイオリンの五嶋みどり、バリトンのトーマス・ハンプソン、ソプラノの佐藤しのぶなど、そして若手の指揮者では大植英次、マリン・オーサップ、リーフ・ブヤランド、佐渡裕などの多彩なアーティストがそろって数多くの演奏会もありました。

そのころ札幌市内の演奏会場としては札幌市民会館、北海道厚生年金会館、札幌市教育文化会館と札幌サンプラザしかなく、しかも貸館予約は一年前だったため、札幌市の特別後援が正式に決まって動き出した1989年9月になってからでは翌年6月、7月に行われる演奏会ができるホールは全く空いていなかったのです。

第一回が無事に開催出来たのは、私がPMFを札幌市に持ち込んだ1989年5月に札幌市の担当窓口にいた田口昇治文化振興係長が札幌市の態勢が決まるのを待たないで、とりあえず演奏会に必要な会場全てを市の事業としてあらかじめ押さえてくれたからです。優れた感覚の持ち主がいて実現できたPMFではあります。田口係長は会期中の事務局の用意、必要な物資の調達、アカデミー・メンバーや札幌芸術の森に来る聴衆などの交通機関の手配、翌日の公演プログラムの制作などまさに不眠不休で指揮を執ったのです。90年に発足した任意団体「PMF組織委員会」の総務課長に就任することになります。

札幌市が特別後援に入ることが決まって1989年9月下旬にアメリカから正式の打ち合わせに関係者一行が到着しました。市内の演奏会場や札幌芸術の森を視察した結果、問題が発生したのです。

欧米の夏の音楽祭は野外がメーンステージだったのです。札幌芸術の森には第二期工事として既に野外ステージの工事が始まっていたのですがステージはアマチュア・バンドのコンサートが出来る程度のサイズで、2000 人も入ればいっぱいという客席数でした。

ところがPMFのメーンステージとなるとオーケストラが主に演奏することになるのです。始まっていた工事は直ちに中止になり、急遽私が元の図面の上に書き入れたステージを中心に全体が書き直され、再び斜面の削り直しステージ部分の作り直しにかかりました。

この年の雪は早く来て工事は中断され翌年4月、雪解けを待って再開されました。開会式までに2ヶ月しかない突貫工事でした。6月20日に千歳に到着した若くて元気なマイケル・ティルソン・トーマスは翌日札幌芸術の森を見に来ました。野外ステージの観客席になる斜面はまだ削った土のままだったのです。一週間後、マイケル・ティルソン・トーマスは開会式で「日本は神風を吹かす国とは聞いて来たのですが、一週間前は土の斜面だったのに今は芝生が生えている」と驚きを表しました。

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