第5回  バーンスタインの宿 ③

バーンスタイン(以下LB;Leonard Bernstein)はニドムの森の空気の中でよみがえり、PMF1990 を当初の予定どおり完全にこなすことが出来ました。ホテル・ニドムはLBが滞在期間中、ベーゼンドルファーと言うオーストリアのウイーンで作られたコンサート・グランド・ピアノをレンタルしました。ここの雰囲気と空気がよほど身体に良く、元気になれたのが嬉しかったのか、LBは音楽のテーマが思い浮かんで「森の歌」と言うタイトルのテーマを4小節作り「来年また来て全曲を完成させるから」と置いて帰りました。この4小節はLBの絶筆になりました。

7月9日にはLBは東京のサントリーホールでのロンドン交響楽団との演奏会のために北海道を去りました。ニドムの石川修一社長と抱き合って別れを惜しみ、自動車の窓から何度も振り返りながら後ろ髪を引かれる思いで新千歳空港へ向かったのでした。

LBが去った後、レンタルしていたベーゼンドルファーのグランド・ピアノを返そうと思ったら、ふたの中の鋼鉄製のフレームにLBのサインがあり高価なピアノが返せなくなりました。ニドムは一瞬あわてたのですが、今では4小節の「森の歌」とサイン入りのグランド・ピアノが宝物になっているのです。

ニドムと札幌芸術の森や札幌市内の演奏会場へは「つばめタクシー」のハイヤーで行き来しました。このハイヤーの運転手さんともすっかり仲良くなりハイヤーの中で軽口をたたいたり居眠りをしたり、すっかり打ち解けてリラックスしていました。

札幌でのPMFの20日間はLBにとっては生涯最後の楽しい思い出だったようです。最初に予定した北京での国際教育音楽祭が急に札幌へ変更になって慌しく準備され、実施された第一回のPMFでしたがLBが思い描いていた国際教育音楽祭は予想以上に成功し「これはもしかしたら奇跡かも分からない」との言葉を残して東京へ移動しました。

初代のPMFアカデミー・メンバーは口をそろえて「指揮をしなくてもただ指揮台に上がってくれているだけでも良かった」と言っています。病をおして札幌へ来たLBは文字通り死力を尽くしてPMFに取り組んだのです。

東京の空気が悪かったのか、7月9日に東京へ移動したその日から調子が悪くなり翌10日のサントリーホールでのロンドン交響楽団との演奏会も指揮が出来ないでアメリカへ帰国しました。

この時LBの替わりに愛弟子の大植英次さんが指揮をしました。
一部の心無い聴衆が「LBが指揮をしないのなら、入場料を払い戻せ」と騒いだのですが3ヶ月後にLBが亡くなったと聞いて恥ずかしい思いをしたようです。大植さん指揮のロンドン交響楽団の演奏も名演だったようです。

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