第2回  PMF組織委員会の始まり

引き続き開くために関係者の注目を集める中で「PMF準備室」を作りました。場所は、元札幌市消防局があった中央区南3条西11丁目の古い建物の4階でした。空きビルの中のがらんとした何も無い広い事務室に4人の職員が勤務して始まりました。このビルは間もなく建て直されて最初は「中央保健センター」となり、その後現在の「中央健康づくりセンター」になっています。

準備室を開いてすぐ予算のこと、演奏会場のこと、アーティストの移動やホテルの手配、スケジュールの調整など、第2回PMF1991を開くために短期間で準備しなければならない急務に取り掛かりました。

そうした矢先、スタートして2週間目の10月14日、突然レナード・バーンスタイン(LB;Leonard Bernstein)が亡くなったというニュースが飛び込んで来ました。事務所の中は一瞬凍りつき重苦しい空気に包まれ、しばらく誰も口を開かなかったのです。それでなくても取り壊し直前のビルの事務所は消沈して声も無く、ストーブの燃える音だけが聞こえていました。異口同音に口をついて出た言葉は「PMFはどうなるの・・・」でした。

札幌市は続ける強い意志を持っていました。12月6日にLBと共に第一回の芸術監督を務めた指揮者マイケル・ティルソン・トーマス(MTT)を中心にPMFを始めた関係者や芸術家たちがロンドンで会議を開きました。当時MTTはロンドン交響楽団の首席客演指揮者を務めていたのです。重苦しい雰囲気の中、長い議論の末PMFを続けて行こうとの結論が出ました。

その年の大晦日、ニューヨークのセント・ジョン・ディヴァイン教会でLBの追悼コンサートが行われました。札幌市からは当時の故板垣武四市長が参列しました。追悼コンサートはLBの愛弟子・大植英次(初代PMFレジデント・コンダクター、現大阪フィルハーモニー音楽監督)の指揮で演奏が進みました。

1万人もの参列者がいる中で故 板垣市長は司祭とニューユーク市長と共に高壇に登り「私は、今日この場で、バーンスタイン氏の願いをかなえるために宣言出来ますことを大変光栄に思います。パシフィック・ミュージック・フェスティバルは私の街・札幌で毎年開催いたします。・・・」と英語で宣言しました。

文字通り万雷の拍手で賞賛されました。札幌市が世界から集まったアーティストを前に「世界から若いアーティストを受け入れる都市」になる意思表示を行った瞬間でした。

年が明けて札幌市が中心になってPMF組織委員会が組織されて継続への第一歩が踏み出されたのです。

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