「PMFを応援する会」の会長であり、元PMF組織委員会オペレーティング・ディレクターであった筆者は、PMFの草創期の出来事を最も身近に体感してきた一人である。その貴重な証言を全9回にわたって連載します。

<連載 全9回>  証言  ― PMFの軌跡と未来へ ―

「PMFを応援する会」会長
元PMF組織委員会
オペレーティングディレクター  竹津宜男

第1回  PMFの誕生

PMFはパシフィック・ミュージック・フェスティバルと言います。今から20年前の1990年に第一回が札幌で開かれてから毎年続けられ今では札幌の夏の名物となっています。

PMFのアイディアはミュージカル「ウェストサイド物語」を作曲した作曲家レナード・バーンスタイン(LB;Leonard Bernstein)が始めました。

LBは作曲家でもありますがヘルベルト・フォン・カラヤンという有名な指揮者と共に二十世紀を代表する指揮者であり、小澤征爾などいま世界で大活躍している大勢の指揮者を育てた教育者であり偉大なピアニストでもありました。LBは北海道の姉妹州アメリカのマサチューセッツ州生まれ、ボストンの近くで行われているタングルウッド音楽祭で最初の生徒として指揮者に育てられました。その後この音楽祭の教授として大勢の優れた音楽家を育てました。

自分の経験から若い優れた才能には優れた教育が必要なこと、最近アジアの音楽家が大活躍してきたこともありタングルウッド音楽祭と同じような教育音楽祭をアジアでも開くことができたら良いのにと考えたのです。この考えを元に開かれたのがPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)なのです。

1989年10月頃、LBは肺がんに冒されていることが分かりました。1990年6月26日の開会式で、病をおして札幌へ来たLBは「神さまが与えて下さった残りの時間を、初めて出会って愛したピアノでベートーベンのピアノ・ソナタ全曲を演奏したらよいのか、指揮者としてブラームスの交響曲を演奏して回るのがよいのか、作曲家としてもっと曲を作るのがよいのか、など71歳にもなればそんなことを考えるのです。しかし、あまり迷わないで残ったエネルギーと神さまが与えて下さった残りの時間は教育にささげ、私の知っていること全てをなんでも多くの若い人達に分け与えるのが最も大事だという結論になりました。音楽についてだけでなく、芸術についてだけでなく、芸術と人生の関係についても、自分が何であるかを知ること、最善をつくすことについても出来るだけ多くの人々に伝えることが出来るなら」と静かに思いを語ったのです。第1回PMFの約20日間、札幌に滞在中は死に物狂いで指導にあたり成功に導いたのです。

LBの残された時間は本当にわずかでした。PMFに間に合わせて造られた札幌芸術の森の仮設野外ステージで7月14日(土)にLBの弟子、リーフ・ブヤランドの指揮で、札幌交響楽団がベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」を演奏し幕を閉じてからちょうど3ヵ月後の10月14日(日)に帰らぬ人となりました。

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