“PMF2013 本年度第1回のカフェ・サロンを開催。
熊谷ユリヤさんが基調講演“
―L.バーンスタインとその盟友の物語―
「PMFの誕生と継承」を実感!!
PMFが1990年に誕生してから来年2014年で ついに四半世紀を迎えます。 こうしたなか、当会では今年は「プレ25周年」の年として多彩な活動を計画しています。6月10日(月)には札幌パークホテルにリニューアルオープンした「ザ・テラスルーム」(旧「光華」の間」)で「第1回カフェ・サロン」を開催しました。(毎年「第1回」はその年の「PMF」の聴きどころなど多彩な企画と構成です)
今年は、第1部が基調講話「PMF生みの親と盟友 レニーとハリーの物語」。(レニーはPMF提唱者レナード・バーンスタインLeonard Bernsteinの愛称。ハリーはレニーの辣腕マネジャー、ハリー・クラウトHarry Kraut氏のこと)。
ご存知のようにレニーはPMFの夢を描き、人生の残された貴重な時間に病魔を押して第1回PMFの誕生を陣頭指揮して、帰国後に亡くなりました。実はハリーこそレニーを裏と表で支えた人でした。
そこで今回はPMFの1回目から通訳業務を務め、その後ハリー付き通訳などPMFで活躍された熊谷ユリヤさん(英語会議通訳者・札幌大学教授)にこの2人についての“物語”を語っていただきました。
熊谷さんは「“通訳”というものは裏方に徹するのが基本だが-」と前置きしながらも、ハリーのPMFにかける熱い思いを通してバーンスタインのナマの姿を追想してくれました。(以下は筆者がお話しを書きとめたメモの断片であり、したがって最終文責は筆者にあります)
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ハリーは最初、私(熊谷)のことを“私の通訳者”と言い、そのうちに“私の声”、更には“私のアシスタント”、最後には“私の友達ユリヤ(Juria)”と言って(信頼して)くれた。「右脳的存在」のレニーのアイデアを、「左脳的存在」のハリーが具体化していった。実際、彼は「マネジャー」「プロデューサー」としての誇りをもって「PMF継続のためにレニーのカリスマ的存在(一流重視)を、ブレイン(頭脳)として支援した」と言っている。(PMFを象徴する芸術の森の「ピクニックコンサート」では)日本の方々からの「ピクニックは日本の習慣には馴染まない」という声に、ハリーは “Let’s have a picnic, Juria ! ”とジョークを交えてその意義深いことを言い張り、その成功に誇らしげだった。
彼は、レニーがPMFの直後の年に亡くなったことについて「私がレニーを無理に札幌に連れて来たことに罪悪感がある・・・・。しかし私の思いはレニーの遺産を継ぐことだった」と述懐していた。以降、彼はPMFの継続・発展に尽力して2007年に生涯を閉じたのです。
彼には、(PMFがアメリカ・ボストンの「タングルウッド音楽祭」をお手本にしているように)音楽祭のボランティア・一般市民は“自主性”を大切に活動してほしい! Fund-raising(募金活動)も大切!という強い思いがあった。
♪♪・・・・・・・・・・熊谷さんはこのように語り、最後に「PMFを考える時、レニーとハリーの物語を時々思い出してください。もちろん(筆者注:その後もPMFの芸術監督として継承した)マイケルとクリストフとペーターと・・・・のことも」と、PMFの体験的お話を結ばれました。
PMF修了生・プロのヴァイオリンとチェロ奏者が奏でる。
このあと「第2部」は、PMF組織委員会・渡辺史子さんが「PMF2013 ここが聴きどころ」と題して、ご自身がヨーロッパでアカデミー生のオーディションに立ち会った様子を交えてプログラムを紹介しました。
今年は2年ぶりにウィーン・フィルメンバーが復帰するのをはじめ、札幌市内6校の小学生や高校の合唱部・吹奏楽部が参加するなど新しい試みも特筆されます。
「第3部」はPMF修了生の中島杏子さん、能登谷安紀子さんのお2人にデュオでバッハ、モーツアルトから能登谷さんの自作曲までたっぷりと美しい音色を奏でていただきました。 会場のおよそ80名の参加者はケーキと飲み物を味わいながら、早くも「アフタヌーンPMF」の雰囲気を存分に堪能しました。
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